地域で診る診療所所長物語

この4月、道東勤医協の桜ヶ岡医院に、6年ぶりに〝返り咲き〟ました。

「道東は僕にとっては故郷みたいなものです」1981年、固定医の2番手として道東勤医協へ。
協立病院建設委員会の責任者として医療懇談会に走り回った日々の記憶は、長い医師人生の〝原風景〟の一つです。道東の悲願だった ねむろ医院の設立にも携わり、道東最後の3年間は同院の院長として地域住民の健康を守りました。
55歳の時に諸事情で選択定年退職。札幌に移り、嘱託として北区病院などに6
年間勤めました。「札幌に移ってからも、医療崩壊が進む道東で民医連の医師たちが頑張っている姿に励まされていました。間接的にであれ、力になれるのは嬉しいことです」単身赴任。月曜から金曜午前まで診療し、昼過ぎの札幌行きの汽車に飛び乗ります。毎週、片道4時間の長旅です。「海霧の季節、飛行機は当てにならないんですよ」
 
ウィークリーマンションで自炊生活。昼の弁当も作ります。「魚や卵を焼くだけです。あとはみそ汁。誰だって出来ますよ。あまりメニューはないけれど」。
 
道東勤医協は歴史的に医師増なしで診療所建設を進めてきました。着任した桜ヶ岡医院も、協立病院の医師が毎日交代で診療する時代が長く続きました。
「だから10年以上も前の僕の記録がカルテに残っているんです。懐かしい患者さんもいますよ」
 
診療を始めて3週間。「地域は高齢化が進み、住民生活は厳しさを増している」と感じています。診療所は「太平洋炭鉱の城下町」といわれた釧路市東部にあります。毎朝、運動のために診療所周辺を歩くと、炭鉱閉山後の寒々しい光景が嫌でも目に入ります。「朽ち果てたような住宅」が建ち並ぶ一画もあり、「資本が労働者をこき使い、食い荒らした残骸がうち捨てられているかのようです」。
 
狭い医局の書棚に、プロレタリア文学集の小林多喜の巻が並んでいます。
「多喜二は書斎に籠もるのではなく、行動する中で書きました。彼がもし医者だったら、どんな行動をするだろうと考えることもありますね」 「我々の芸術は、飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ」という多喜二の言葉は、医療にも共通すると言います。
 
民医連医師としての出発は室蘭診療所です。「医師住宅もなく、医局に寝泊まりしていましたよ。それでも診療所が好きでしたね。民医連の原点が診療所にはあり、地域との温かいつながりがあります。病院勤務だけだと、孤独な医師人生を送ることになるんじゃないでしょうか」
 
民医連運動の継続・発展のためには「世代の議論が大事」と強調します。「僕らは学生運動やサークル活動の中で議論してきました。それが今の生き方につながっています」
 
札幌病院の草創期、豊平川沿いの貧民街住民からも浄財が寄せられ、そのお金で買った顕微鏡はしばらく使われず、大事に飾られていたといいます。「そんなことも、丁寧に議論してほしいですね」。
 
毎日が充実しています。「今を耐えて、民医連を守りきることが次の世代の反転攻勢につながります。残る力を役立たせることが出来て、嬉しいですよ」
2008年4月号の北海道民医連新聞の転載です。

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